いまから思えば、ほんの思いつきから始まったコンテスト。その当時市内中・高ブラスバンドもようやく急成長の軌道に乗り始めていた頃。プレーヤーもバンドレベルより、各人の技量を磨かねば、これ以上の成長が見込めないところまでレベルアップしてきまし。そこで当時所属していた明石人丸ライオンズクラブの事業担当・第3副会長の地位を悪用して、最小演奏単位である2重奏からのアンサンブル・コンテストを企画した。協力者は明石北高校音楽部の松井隆司先生で全日本コンクールへの出場を果たしていた実力者。彼とは、彼が明石付属中のブラバンでトランペットを吹いていた頃からのお付き合い。開催エンジンの明石吹奏楽連盟理事長は例の山手照夫大師匠。ことはトントンと進み、とりあえずは明石市民会館中ホールを使ってこじんまりやろうとなった。しかし、当時70万くらいの予算は有ったと記憶しています。
優勝杯そのほか、始めに用意すべき品々が多かった。また審査員の先生方は一流奏者を厳選。
忘れもしない昭和57年2月20日。いかが相成ることやら固唾をのんでの開催。若さって恐ろしい、
我々の心配などどこにいったやら、若人の力強い、優美な、美しい、可能性を秘めた演奏が披露され会は一挙に盛り上がり、これは是非とも続ける価値ありとなった。
爾来、連続26年間、震災での開催を危ぶまれた年も乗り越えて、今日にいたりました。
残念ながら、私は事業不振から、ライオンズを退会したのが平成2年(1990)、その後も継続されていたコンテストが、一昨年肝心の本体・明石人丸ライオンズクラブが会員数の減少により解散の止む無きにいたってしまった。
その報を聞き、アンサンブルともう一つ私が幹事の時始めた小学生駅伝(22回開催継続中)の運命や如何にと心配しておりましたら、ライオンズが消えても、この二つの事業は消してはいけないと有志が立ち上がり、この事業継続のみを目的とした「ひとまる倶楽部(会長 比嘉嘉久)」が結成された。
もちろん早速、参加を希望して会員となり、去年開かれたひとまる倶楽部主催としては一回目のコンテストに勇躍復帰参加を果たしたというわけ。・・・われながらよくぞ永らえてくれたものと感謝感謝。